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新横浜土地開発の歴史

新横浜の歴史には西武グループがかなり深く関わっているということがわかってきました。

このページの記述は, 西武グループの歴史―シリーズ西武― 西武と堤義明の“悪業”を暴くWikipedia/堤康次郎
プリンスの墓標 桐山 秀樹 (著)西武事件 「堤家」支配と日本社会 吉野 源太郎 (著)淋しきカリスマ堤義明 立石 泰則 (著)
横浜市都市整備局のサイトなどを大いに参考にしています。


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堤康次郎 (以下,敬称略)
1889年(明治22年) 滋賀県生まれ
1918年(大正 7年) 29歳で軽井沢開発
1924年(大正13年) 36歳で衆議院議員となり,以後衆参あわせ13回当選.
「不毛な土地を買い,これを開発し,発展させて価値を創出する。」という,
日本の高度経済成長時代の土地開発のスタンダードにもなっていた旧来の西武商法により,
堤康次郎はある人にとっては神,またある人にとっては悪徳と,正反対の評価をされているようである。
時には政治家である立場を大いに利用して財を築き,しかしもう一方で地域への貢献も確実に行ってきた。
戦時中の社会貢献の功績等を高く評価する向きもある。
どちらの見方が正しいのかはわからないが,おそらくどちらも正しいのであろう。
ともあれそうした康次郎の商法を脈々と継承してきた堤義明の西武グループであったが,21世紀の現在,
不祥事のあった創業家=堤家を切り離し,「新横浜ボーリングセンター」「新横浜インドアテニスコート」「横浜プリンスホテル」他,
いくつもの不採算事業を閉鎖し,新たな西武グループ構築へ向けて経営の建て直しを図っている最中であることは事実である。

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1959年(昭和34年)旧国鉄が東海道新幹線の計画を発表。(経路は未公表)
同年この時点で,堤康次郎は「日本開発」というダミー会社の中路新吾に,現・新横浜周辺の新幹線予定地(約8,000坪)を
「競走馬のトレーニングセンターにする細長い土地が必要」という理屈で地権者を口説く方法で買収させた。
(西武グループは他に新大阪駅周辺などの新幹線予定地等も同様に取得している。)
「日本開発」が旧地権者から土地を買い上げた買収額は1坪あたり4,000円〜8,000円
当時の新幹線予定地は,篠原に住む農家の所有する田畑がほとんどであった。

買収資金は,西武グループ企業で康次郎自らが設立した「東京護謨」が「日本開発」へ出資する形であった。
その後「東京護謨」は1964年合併で「西武化学工業」を経て,1965年「西武ゴム化学」として分離するなど社名を変更している。
「西武ゴム化学」はその後「西武ポリマ工業」となったが,製造部門である「西武ポリマ化成」は2005年に民事再生法適用を申請した。

公表前に,新幹線予定地を康次郎がどのように知り得たかは不明だが,政治家の立場を活用したといわれている。
当時国鉄総裁は十河信二であったが,佐藤栄作(運輸族議員,後の首相)とのゆ着を追求されて辞職に追い込まれそうになったとき,
十河の擁護に回って首をつなぎ,恩を売ったのが康次郎であったといわれている。

1961年(昭和36年) 旧国鉄が東海道新幹線の経路を発表。現・新横浜に新幹線が通ることが世間に公表される。
康次郎は,取得・登記済みの新幹線予定地を1坪29,500円で旧国鉄に転売する。
旧地権者たちはこれに激怒したが,康次郎配下の中嶋忠三郎は弁護団を組織し地権者の団結を防ぎ,「登記無効」提訴の阻止
尽力したといわれている。また土地買収に当たった「日本開発」の中路真吾を海外に逃亡させたのも中嶋らしい。

8,000坪とはおよそ600m強x40mで,確かにちょうど新横浜駅の大きさである。
8,000坪分の転売で得た差益だけでも,約2億円と見積もられるが,これを現在の価値に
換算すると,12〜30億円となる(物価指数で換算するか,平均賃金で換算するかによる開きあり)。
更にこの時西武グループが買収した土地は,8,000坪だけではないであろう。

1964年(昭和39年) 康次郎は,東京プリンスホテル開業や東海道新幹線の開通を待たず,東京駅で倒れそのまま死去。
この年,新横浜駅・北部地区土地区画整理事業着工,新横浜駅開設。
11年後の1975年に新横浜の町名が誕生している。

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その後,1989年横浜アリーナ(西武,キリンビール,横浜市の第三セクター)や1992年新横浜プリンスホテルの建設があるが,
このうちプリンスホテルの建設を巡って旧地権者とのいさかいが再び起こる。

1988年 4月 「横浜市」と「西武鉄道」が新横浜3丁目の市道1,440屬閥瓩の西武所有地1,580屬鯏価交換
(地図上でざっと概算すると長さ100mx幅14.4mがほぼプリンスホテルのところにあった市道+歩道面積にあたる。)

旧地権者が「区画整理のため市道用地」として横浜市に売ったはずの土地の一部が,民間企業施設の建設のため交換材とされた。
旧地権者を中心とした「しのはらまめどを守る会」は,交換が等価でなく市民は21億円の損害を被ったとして,当時の横浜市長を提訴した。

新横浜3丁目-4番地,5番地は間の市道が潰され,3丁目4番地に統合され新横浜プリンスホテルおよびプリンスペペとなっている。
新横浜10,11,14,15番地は十字型に市道が潰され,3丁目100番地に統合され横浜アリーナとなっている。



1989年 1月 新横浜土地交換問題で横浜市長提訴される(交換は等価でなく,横浜市は市民に21億円の損害を与えた)
1992年 6月 新横浜土地交換訴訟で評価額に59億円の差があったことが明らかになる
1993年10月 横浜地裁が住民側の請求棄却(市民に損害があったとは認められない) これに対し住民側は控訴
1996年 1月 東京高裁が住民側の控訴棄却(当時の市の土地価格評価は適切だった)


最終的には住民側敗訴が確定している。

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1994年に篠原口側の区画整理が発表されたが,これは一切進まず,10年後に失効している。

1994年  月 新横浜駅南部地区土地区画整理事業 都市計画決定
2003年  月 新横浜駅南部地区土地区画整理事業 事業計画廃止


計画には,
・プリンスホテルと横浜銀行事務センターの間の道(元石川線現終点)を,新幹線をくぐらせ,
 さらに拡張した坊海道(現・篠原口ロータリーから篠原池交差点へ至る道)へ繋げる。
・篠原口ロータリーを拡充し,駅前の坊海道を整備,上記の道路へ繋げる。
・新幹線をくぐった元石川線から新幹線沿いに道路を作り,ロータリー前を通り,1丁目4,5番地間へ再び
 新幹線ガードをくぐる道を整備する。
などが盛り込まれていた。
横浜市H19年度道路局発注・区別道路整備予定箇所図に,かすかに白抜き線として残る計画道路図を参照されたい。

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上記の区画整理計画は失効したが,地権者と横浜市の間で,住環境を整える話し合い(勉強会)が継続中である。

2005年12月 篠原の住環境を考える会設立 区画整理によらぬ,市・住民協力下での住環境整備検討 懸案は下水道整備
2006年12月 新横浜駅前(南口)まちづくり会設立,地権者の意向に基く街作りが基本

横浜市都市整備局のサイトを参考にされたい。

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下表に,新横浜町内の西武グループが関わる施設を記す。
施設名 開業 備考
新横浜プリンスホテルインドアテニスコート 1988年 4月 2005年 5月閉鎖
横浜アリーナ 1989年 4月 西武鉄道(当時はプリンス)/キリンビール/横浜市の第三セクター
新横浜プリンスホテルスケートセンター 1990年10月
新横浜西武ビル 1991年 3月 文教堂/西武建設/西武鉄道(新横浜観光案内所)他
新横浜プリンスホテルボーリングセンター 1991年 4月 2006年 3月閉鎖
新横浜プリンスホテル 1992年 3月
新横浜プリンスペペ 1992年 3月
新横浜スクエアビル 1995年 2月 西武不動産他,2002年屋上に西武新横浜ヘリポート完成
西武運輸横浜貨物センター 1丁目−10

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2007年 4月 新横浜3丁目の駅前交番裏側の土地(駐車場,後,空地)が国有地として競売に掛かった。
篠原側の区画整理事業に反対していた地権者の方が手放した,新横浜町内側の最後の土地であったという話を小耳に挟んだが,
真偽は定かではない。


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調べた結果は以上です(引用要約が多いですが…)。
極力客観的な表現をするよう努めましたが,事実と異なる点があればお知らせいただければ幸甚です。
より詳細な情報を得たい方は,前述の文献他を参考にしてください。

こうした歴史的経緯を踏まえると,区画整理事業の頓挫した篠原口側をどうすべきだなどとは,軽々しくコメントできない気がします。
ただし駅前の通りが未だに細い交互通行だったり,他でも歩道が無かったり,一部下水道が整備されていなかったりする点は,
住んでいる方々が充分納得の行く形で早期に解決されれば良いなと思います。

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ところで最近新横浜から無くなった,テニスコート,ボウリング場以外の西武グループ関連のもの。
思い当たりますでしょうか。
「それ」は1991年〜2006年まで新横浜に存在し,
その間何度か日本の頂点に立ち,無くなる前には2年間連続でアジアの頂点にも立ちました。

まだ「それ」を応援することはできます。

「それ」についていずれ調べてまとめてみたいです。

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